

近年、スーパースポーツモデルを中心に、バイクのフロントカウル周りに小さな翼のようなパーツ、「ウイングレット」が装着されているのをよく見かけるようになりました。これこそが、走行風を利用して車体を路面に押し付ける力、「ダウンフォース」を生み出すための装置です。
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基本的に航空機の翼は、上側が膨らんだ形状をしており、空気の流れに速度差を生じさせることで上向きの力(揚力)を発生させて空を飛びます。バイクのウイングレットはこの逆の原理を利用しています。つまり、翼の断面形状を航空機とは逆向き、あるいは角度をつけることで、下向きの力である「負の揚力(ダウンフォース)」を発生させているのです。
参考)ダウンフォース
HRC | サスペンションセッティングの働きと基本
参考リンク:ホンダ・レーシング(HRC)による解説。荷重変化とサスペンションの関係性について、レースの現場視点での基礎知識が学べます。
このダウンフォースは、速度の二乗に比例して大きくなるという特性があります。つまり、街中をゆっくり走っている時よりも、高速道路やサーキットでの走行時にその効果は指数関数的に増大します。例えば、時速100kmで走っている時と時速200kmで走っている時では、車体にかかる空気の圧力は4倍にもなるのです。この特性を理解せずに「ただの飾り」と思ってウイングレットを装着すると、高速域で予期せぬハンドリングの変化に戸惑うことになります。
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特にMotoGPの世界では、300馬力近いパワーを持つマシンが加速する際、フロントタイヤが浮き上がろうとする「ウイング」現象が大きな課題でした。これを電子制御でパワーをカットして抑えるのではなく、空気の力で物理的にフロントを抑え込むことで、フルパワーで加速し続けるためにダウンフォース技術が急速に発展したという歴史的背景があります。
参考)MotoGPマシン全車に装着されている“ウイング”はどんな効…
ダウンフォースが発生することで得られる最大のメリットは、タイヤの「グリップ力」の向上です。タイヤのグリップ力は、タイヤが路面に押し付けられる荷重に比例して高まります。通常、バイクの重量は一定ですが、ダウンフォースは空気の力を使って「仮想的な重量」をタイヤに上乗せすることができます。これにより、車重を増やさずにグリップ力だけを稼ぐことができるのです。
参考)バイクのウィング・スポイラーが発生させるダウンフォースってど…
高速走行からフルブレーキングを行う際、ダウンフォースが車体を下に押し付けているため、タイヤがロックしにくくなり、より強い力でブレーキをかけることが可能になります。また、フロントフォークが急激に伸び縮みするのを空気の力で抑制し、挙動を安定させる効果もあります。
旋回中もダウンフォースがタイヤを路面に押し付けるため、遠心力に負けずに高いコーナリングスピードを維持できます。特にフロントタイヤの接地感が増すことで、ライダーは安心してバイクを寝かし込んでいくことができます。
前述の通り、加速時にフロントが浮き上がるのを防ぎます。これにより、前輪が地面から離れる時間を減らし、ハンドル操作が可能な状態を長く維持できるため、加速効率と安全性が向上します。
しかし、これらのメリットは「空気抵抗(ドラッグ)」とのトレードオフであることも忘れてはいけません。強力なダウンフォースを生むパーツは、同時に空気の壁にぶつかることを意味するため、最高速度が若干低下したり、燃費が悪化したりする可能性があります。
参考)空気抵抗にしかならなそう! エアロパーツとは思えないボンネッ…
これはあまり語られることのない、非常に重要な「意外な落とし穴」です。ダウンフォースが効くということは、高速走行中に車体に対して上から強い力が加わり続けていることを意味します。これは、タンデム(二人乗り)や重い荷物を積んでいるのと同じように、サスペンションを縮める方向に作用します。
参考)バイクとBERTとチューニング 第3のダウンフォース
クシタニ | サスペンションの減衰力調整で何が変わる?
参考リンク:老舗バイクウェアメーカーによる、サスペンション調整の基礎解説。減衰力がハンドリングに与える影響を分かりやすく解説しています。
もし、純正の柔らかいサスペンション設定のまま強力なウイングレットを装着して高速道路を走るとどうなるでしょうか?ダウンフォースによってサスペンションが常に沈み込んだ状態(プリロードがかかった状態)になり、サスペンションが使える残りのストローク量が減ってしまいます。この状態で路面のギャップ(段差)を拾うと、衝撃を吸収しきれずに「底付き」を起こし、車体が激しく跳ねたり、最悪の場合は転倒につながるリスクがあります。
参考)https://academicjournals.org/journal/JMER/article-full-text-pdf/03C83265869.pdf
本格的なダウンフォース効果を狙う場合、沈み込みを見越してサスペンションのバネを硬くしたり、初期荷重(プリロード)を強めにかけておく必要があります。F1などのレーシングカーがガチガチのサスペンション設定なのは、数百キロというダウンフォースに耐え、車高を一定に保つためでもあります。
空力によって車体が押し付けられると、サスペンションの動き出しが渋くなることがあります。これに対応するために、伸び側・縮み側の減衰力(ダンピング)を調整し、空気の力で押さえつけられてもスムーズに動く足回りを作る必要があります。
「ウイングを付けたらハンドリングが重くなった」と感じる場合、それは単に空気抵抗のせいだけでなく、サスペンションが沈み込みすぎてキャスター角が変化したり、タイヤが潰れすぎていることが原因であるケースも少なくありません。ダウンフォースとサスペンションセッティングはセットで考えるべき要素なのです。
市販車に後付けでウイングレットなどのエアロパーツを装着する場合、避けて通れないのが日本の厳しい「車検(継続検査)」と道路運送車両法の保安基準です。MotoGPマシンのような鋭利で巨大なウイングをそのまま公道車につけることは、法律上許されません。
カーネクスト | リアスポイラーを取り付けたい!車検には通るのか?
参考リンク:車のエアロパーツに関する車検基準の解説ですが、寸法の規定や固定方法など、バイクのカスタムにも通じる重要な法規的解釈が含まれています。
車検をクリアするために注意すべきポイントは主に以下の3点です。
車検証に記載されている車両の寸法から、一定の範囲内(指定部品であれば±2cmなど)に収まっている必要があります。大きなウイングを取り付けて車幅が大幅に変わる場合、「構造変更申請」が必要になります。これを怠ると違法改造となります。
歩行者保護の観点から、車体の外部にある突起物は、鋭利であってはなりません。具体的には、パーツの角(カド)が半径2.5mm以上の曲線(R)で丸められている必要があります。鋭く尖ったナイフのようなデザインのウイングレットは、検査官に危険と判断され、即座に不合格となる可能性が高いです。
ガムテープや簡易的な両面テープだけで固定されたパーツは、走行中に脱落する危険があるため車検に通りません。ボルトやナット、リベットなどで強固に固定されているか、強力な接着剤等で容易に外れない状態であることが求められます。
また、250cc以下のバイクには車検がありませんが、だからといって何でもありではありません。道路交通法の整備不良や不正改造として警察に取り締まられる対象になります。特に「鋭利な突起」は、万が一の人身事故の際に相手に致命傷を与えかねないため、自作や安価な輸入品を取り付ける際は、自分でヤスリがけをして角を丸めるなどの配慮が必須です。
最後に、パーツではなく「人間」に焦点を当てた視点を紹介します。実は、バイクにおいて最も空気抵抗となり、かつ最大のダウンフォース発生装置(あるいはリフト発生装置)となり得るのは、バイクの上に跨っている「ライダー自身」です。
参考)ロードバイクのボディポジションによって削減できるワット数の表…
バイクの前面投影面積のうち、かなりの割合を人間が占めています。MotoGPライダーが直線で伏せるのは空気抵抗を減らすためですが、コーナーへの進入で体を起こす動作は「エアブレーキ」としての役割も果たしています。さらに、ライダーが体重を前後左右に移動させることは、ダウンフォースによる荷重変化を補う、あるいは増幅させるアクティブな空力制御と言えます。
参考)バイクと一緒に「ライダーがエアロ」になりましょう!
上体を低く伏せることで、ヘルメットから背中への空気の流れをスムーズにし、乱気流(ドラッグ)を減らすことができます。逆に、高速コーナーでイン側に体を大きく落とす動作は、重心位置を変えるだけでなく、体全体で風を受けて旋回力を高める効果も期待されています。
最近のレーシングスーツには、背中に「コブ(ハンプ)」が付いていますが、これは転倒時の保護だけでなく、ヘルメットの後ろにできる空気の渦を整流し、スムーズに後ろへ流すための空力パーツでもあります。ライダーの着ているウェアがバタつくだけで、車体の安定性は大きく損なわれます。
高価なカーボン製ウイングレットを買う前に、まずは自分のライディングフォームを見直し、ウェアのバタつきを抑えること。それが、最もコストパフォーマンスが高く、効果的な「空力チューニング」かもしれません。マシンと人間が一体となって初めて、理想的なダウンフォースとエアロダイナミクスは完成するのです。