

北極点でのバイク走行は、マイナス54℃の中でも天然皮革のシートが唯一凍らなかった。
風間深志は1950年、山梨県山梨市で生まれた。幼少期から家にバイクがあり、兄たちもバイクに乗っていたため、自然な流れで二輪の世界に引き込まれていった。当時はバイクといえば「配達や仕事の道具」というイメージが強かった時代だ。
仕事でもないのにバイクに乗れるという誇らしさが、彼をのめり込ませていく。16歳になるとすぐに免許を取り、そこからの10年間はモトクロスレースに情熱を注いだ。チャンピオン経験もあるほどの腕前に磨き上げられた。
バイクへの情熱がただのスポーツにとどまらなかった転機は、ある日の山登り体験だ。地元の裏山(標高504mの霞森山)をバイクで登るという無謀とも思える挑戦を、10代の風間少年は約6時間かけてやり遂げた。もちろんバイクで走れる道などない。ほぼ押して登り切ったのだ。
頂上で見た景色の感動は、彼の人生を決定づけた。「目の前に無限に続く地平線が見えた」という原体験が、のちの北極・南極・エベレストへの冒険の原点となる。つまり原点は「地平線の先を見たい」という純粋な欲求だったということですね。
1972年から1980年まで、風間はモーターマガジン社で「月刊オートバイ」の編集者として働いた。部数を5万部から30万部に伸ばしたやり手編集者だった。当時はまだ日本に存在しなかった「オフロード」という概念を初めて提唱したのも彼だ。これはバイク文化を語る上で重要な事実です。
会社を辞めるのすら周囲に引き止められて苦労したというエピソードは、後の無謀とも言える冒険の連続を考えると、なんとも人間らしい一面だ。
参考:風間深志の生い立ちからバイクへの情熱の原点が詳しく掲載されています。
【冒険家 風間深志&俳優 風間晋之介】親子で語るバイクのルーツと冒険 | 日本自動車工業会
1987年4月21日。風間深志は人類史上初めてバイクで北極点に到達した。この偉業は今なお誰にも破られていない、文字通り唯一無二の記録だ。
挑戦に使われたのはヤマハTW200をベースにした特殊マシン。ベース車のエンジン(4ストローク)は寒冷地での始動性に優れる2ストローク(TY250)に換装された。タイヤ、シート、配線類に至るまですべて特注品で、車重はわずか90kgに抑えられている。製作費は1台1,400万円(2台製作)で、遠征費用の総額はガソリン・食料補給の航空機を含め1億2,000万円に達した。
北極点を目指す出発地点は北緯83度07分、北半球最北の島「ワードハント島」。そこから北極点まで、マイナス54℃という極限環境の中を47日間かけて進んだ。気温マイナス54℃は、国内で経験できる冬の寒さ(東京で平均マイナス2℃)の約27倍の厳しさだ。
現地で最大の敵となったのは「雪」だった。想定していた固い氷ではなく、タイヤを深くとらえて前進を阻む柔らかい積雪が最大の障害になった。加えて「乱氷帯」と呼ばれる、氷同士がぶつかり合い巨大な氷塊がゴロゴロと転がる迷路が随所に出現した。
氷の亀裂「リード」が口を開けると、わずか10cmほどの薄い新氷の上を渡らなければならない場面も多々あった。寝袋の内部まで凍りつく夜を何十日も越えながら、風間はひたすらバイクを押し続けた。こう考えるとバイクに「乗った」ではなく「押し続けた」冒険と言える部分が大きい。
「人間の意志や気合いは一切通用しない。ただ謙虚に自然に従うことが唯一の方法だ」と、風間は後に語っている。北極点にたどり着いたとき、周囲には太陽と地球と自分だけ。どこを向いても南という究極の非日常が広がっていた。
参考:北極点到達マシンの技術的な詳細と風間の心境が読めます。
自然に従う態度で臨んだ我が「北極点」への旅。 | Y'S GEAR CLUB WEB
北極点から5年後の1992年、風間深志は今度は南極点にバイクで到達した。これにより、バイクによる北極・南極の両極点到達という前代未聞の世界記録を樹立する。同時に陸路による日本人初の両極点到達者にもなった。
南極点挑戦に使ったスペシャルマシンの名前は「OU70 ウィスパーダンサー(Whisper Dancer)」。ヤマハTW(TW200)をベースに、ヤマハTYの2ストロークエンジンに換装されている。南極の雪原を走るための踏破性に加え、市販車をはるかに下回る低騒音・低公害を実現するという難題をクリアしなければならなかった。
なんと開発に1年以上を費やし、マシンの製作費だけで実費換算1億円超。遠征費用の総額は1億4,000万円という壮大なプロジェクトとなった。このマシン、実は超低温環境専用に設計されているため、常温では走ることができないという驚くべき仕様だ。
| 項目 | 北極点マシン(TW200改) | 南極点マシン(ウィスパーダンサー) |
|------|------------------------|----------------------------------|
| ベース | ヤマハ TW200 | ヤマハ TW(TW200改) |
| エンジン | 2スト(TY250)換装 | 2スト(TY)換装 |
| 製作費 | 約1,400万円/台 | 実費換算1億円超 |
| 遠征総費用 | 約1億2,000万円 | 約1億4,000万円 |
| 車重 | 約90kg | 約120kg |
| 特記 | マイナス60℃設定 | 常温では走行不可 |
南極大陸の雪原では、わずかにラインを外れると後輪が一瞬で雪にはまる。1km進むのに1時間を要することさえあった。それでも出発から28日目、アムンゼン・スコット基地の隊員たちに出迎えられながら南極点に到達した。
南極点で風間が感じたのは「不安にも似た感情」だった。方位が北しかなく、白夜が続いて夜がない世界。上下感覚も時間も失われ、自分の存在を確認できる基準がなくなる恐怖。「夜が来ることはしあわせだし、基準はありがたい」という言葉は、日常の価値を改めて気づかせてくれる。
この偉業のマシン「ウィスパーダンサー」などの歴代冒険バイクは、山梨県山梨市の道の駅みとみにある「SHINJI KAZAMA Motorcycle Museum」で展示されている(展示内容は数ヶ月ごとに入れ替わり)。バイク乗りなら一度は訪ねてみる価値がある場所だ。
参考:南極点挑戦の費用と経緯が詳細にまとめられています。
白い大陸に踊る"ウィスパーダンサー" | Y'S GEAR CLUB WEB
1982年、第4回パリ・ダカールラリーで風間深志は日本人として初めてバイク部門に参戦し、完走した。インターナショナル500ccクラス6位・二輪総合18位という成績は、日本人ライダーの最高位として16年間破られなかった。
しかし、この参戦の実態は驚くほど「無謀」なものだった。フランス語で書かれたルートブックは読めなかったので現地で捨ててきた。競技のルールも完全には把握していない。サポートなし、予備パーツなし。ヘッドライトも他の参加者が大型を装備するなか、6Vの貧弱な装備で挑んだのだ。
それでも完走した背景には、アフリカを何度もツーリングして培ったサバイバル力と、サハラ砂漠で遭難しかけながらも戻ってくる強さがあった。「空気と水と飯、この3つが揃えば生きていける」とサハラで痛感したという言葉は重い。
ところが2004年、22年ぶりに出場したダカールラリーで悲劇が起きる。コース上に突如飛び出した暴走トラックと衝突し、左足に重傷を負った。膝と足首に機能障害が残り、それまでのような激しいバイクライディングが困難になった。
「健康ほど大事なものはない」と風間は語る。しかし彼はそこで止まらなかった。WHO(世界保健機関)が推進する「運動器の10年」世界キャンペーンの国際親善大使として、スクーターによるユーラシア大陸横断18,002km(2007年)、四輪車によるアフリカ大陸縦断、自転車でのオーストラリア大陸横断など、事故後の4年間で地球1周半以上にあたる66,300kmを走り回った。
怪我は終わりではなかったということですね。2004年以降の活動の密度は、それ以前と比べても決して劣らない。むしろ障害を抱える人々と共に冒険に出ることで、その輪を広げていった。
ライダーにとって事故のリスクは避けられないが、風間の生き方は「転んだ後にどう走るか」を示している。適切なプロテクターやライディングギアは、そのリスクを最小限に抑えるための現実的な選択肢だ。脊髄プロテクター入りのバイクジャケットや、くるぶし保護機能を持つバイク専用ブーツは、日常ツーリングでも活きる装備として検討してみてほしい。
参考:2004年事故とその後の冒険活動について詳しく掲載されています。
風間深志「バイクは修行。だからラクなことはひとつもない」 | AHEAD magazine
ここで多くのバイク乗りが驚く事実がある。北極・南極・エベレスト・パリダカ・バハ1000と、世界中の極地や砂漠を走り回った風間深志が、実は73歳になるまで日本一周ツーリングを一度もしたことがなかったのだ。2023年秋から始まった連載「風間深志73歳、人生初の日本一周ツーリングへ」はバイク界に大きな話題をもたらした。
「地球の果てには行ったが、自分が生まれた国をちゃんと走ったことがなかった」という事実は、あの風間深志でさえ「まだやっていない冒険がある」ことを示している。これは使えそうです。
もう一つ、風間深志がライダーコミュニティに残した大きな遺産がある。2013年にスタートした「SSTR(サンライズ・サンセット・ツーリング・ラリー)」だ。
- 🌅 ルール: 日の出とともに太平洋側(日本列島の東海岸)をスタート、日没までに石川県・千里浜なぎさドライブウェイにゴールする
- 🏍️ 車種・排気量: 問わない。ルートも自由
- 📅 開催時期: 毎年5月下旬〜6月上旬の約1週間
第1回(2013年)の参加台数はたった127台だった。それが毎年右肩上がりで成長を続け、2025年は12,500台超が参加した。2026年には過去最大規模の14,000台の出走枠が設けられ、今や日本最大のツーリングラリーへと発展している。FIM(国際モータサイクリズム連盟)の「Ride Green」運動としても承認されている。
| 年度 | 参加台数 |
|------|---------|
| 2013年(第1回) | 127台 |
| 2019年 | 3,400台超 |
| 2023年 | 約12,100台 |
| 2025年 | 12,500台超 |
| 2026年(予定) | 14,000台 |
SSTRの最大の特長は「他者との優劣を競わない」点にある。決められた1日の中で、自分なりのルートと冒険を作る。スタートの太陽を背に受けて、日没の千里浜を目指す。この「自分だけの冒険」という発想こそ、風間深志のバイク哲学が凝縮されたイベントだと言える。日本全国47都道府県・17歳から82歳の参加者が集う、バイク乗り最大の祭典となっている。
参考:SSTRの開催要項・ルールについての公式情報はこちら。
風間深志が50年以上にわたってバイクに乗り続けてきた中で、繰り返し語ってきた言葉がある。「バイクは自然とつながるための媒体だ」というものだ。エンジンを積んだ乗り物でありながら、五感をフルに使って自然と直接触れ合えるのがバイクの本質だと彼は言う。
クルマが「どこまでも行ける」乗り物だとすれば、バイクは「どこまでも行きたくなる」乗り物だ。これが基本です。風間はそう表現している。走れば走るほど地平線の先を見たくなる。その欲求こそがバイクの魅力の核心であり、彼が北極・南極・エベレストへと向かわせた原動力でもあった。
「ラクと楽しいは違う」というのも、風間の一貫したメッセージだ。バイクは雨も風も暑さも寒さも全身で受け止める乗り物で、快適さを求めるなら他の選択肢がいくらでもある。それでもバイクを選ぶのは、不快の中にある充実感と、自分が生きていることへの実感を求めているからだ。
意外ですね。世界の極地を制覇した冒険家が最後に選んだのは「日本一周」という身近な旅だったという事実は、改めて「冒険」の本質を教えてくれる。遠くへ行かなくても、まだ走っていない道は山ほどある。日帰りツーリングでも、いつもと違うルートを選べばそこに小さな冒険が待っている。
- 🗺️ 地平線を意識する走り方: いつもの道ではなく、視界が開ける峠や海沿いの道を選ぶ
- 🌄 時間を変える: 日の出前に出発するだけで、同じ道が別世界になる
- 📍 「まだ行っていない場所」をひとつ決める: 風間が語る冒険の最小単位は「一歩を踏み出すこと」
風間深志は今も走り続けている。障害を抱えながらも止まらない彼の姿は、バイクに乗るすべての人に「まだここから始められる」というメッセージを発し続けている。バイクに乗り始めた頃の、あの地平線を見たくなる感覚を、もう一度思い出してほしい。それが原点です。
参考:風間深志のバイク哲学とその言葉が深く掘り下げられています。
大人になって、バイクで「冒険」しましたか?みんな風間深志になりたかった | ヤマハ発動機