

50歳でS級に戻ったバイク乗りは、世界中でほぼいません。
2026年2月に発表された2026年前期ランク(4月から適用)で、青木治親の名前がS級46位に輝きました。2015年前期以来、実に11年ぶりとなる最上クラスへの返り咲きです。
青木治親本人が取材でこんな話をしています。「息子に『最後にS級だったのはいつ?』と聞かれて『3、4年前じゃないの?』と答えたら、まさかの10年以上も昔だったという(苦笑)」。本人もそこまで間があいていたとは知らなかったのです。
30代はずっとS級、40代はずっとA級、そして50歳でまたS級。これが端的に彼のキャリアを表しています。誰もが「すごい」と感じる経歴です。
2025年シーズンは2月1日の伊勢崎アフター5ナイターで優勝するなど好成績を積み上げ、ランクを上昇させました。デビューから20年以上が経過した今でも、川口オートレース場所属の現役レーサーとして第一線で戦い続けています。
S級に戻ることはメリットだけではありません。ハンデが厳しくなり、上位選手との対戦が増えるため競争環境が格段に上がります。本人も「地獄の半年間が待っている」と笑いながら話しています。それでも「この年になってまたS級はやっぱりうれしい」と語る姿には、バイクへの純粋な情熱が滲み出ています。
オートレースのS級は全国の選手を成績順にランク付けした最上位クラスで、競馬でいえば「G1常連クラス」に相当します。そこへ50歳を目前にして戻ってきた選手は、日本のモータースポーツ史上でも異例の存在です。
青木治親選手のオフィシャルプロフィール(AutoRace.JP)
青木治親(あおき はるちか)は1976年3月28日、群馬県北群馬郡子持村(現・渋川市)生まれ。父親がポケットバイクのキットを買ってきたことが、三兄弟のバイク人生のすべての始まりでした。小さすぎて父本人は乗れないというオチつきで、結果的に3人の息子たちに世界チャンピオンが育ったわけです。意外ですね。
6歳からポケバイに乗り始め、1992年には鈴鹿4時間耐久ロードレースで16歳にして優勝。翌1993年、国際A級に特別昇格し、17歳でWGP(ロードレース世界選手権)にフル参戦を開始しました。
1995年と1996年、2年連続で125ccクラスのワールドチャンピオンを獲得。特に1995年は全13戦中7勝という圧倒的な強さで頂点に立ちました。これは、ホンダのマシンに乗りアリー・モレナー・レーシングに在籍した時代の快挙です。
その後、250ccクラス(1997〜1998年)、500ccクラス(1999年、2001年)とステップアップ。スーパーバイク世界選手権(2000年)にも参戦しました。500ccクラスでは非力な2気筒NSR500Vを駆りながらも、4気筒勢が大半を占める中でベストプライベーター賞を獲得しています。
2003年にWGPからの撤退を余儀なくされた後、27歳でオートレースへの転向を決意します。この決断が業界の歴史を変えることになります。
青木治親のWGP制覇の歴史(Honda公式・日本人ライダーの軌跡)
2004年8月1日にオートレース選手としてデビューした青木治親は、29期生として川口オートレース場に所属します。オートレース選手養成所への入所は27歳。同期の多くはまだ未成年で、年長者として常に「まとめ役」を押しつけられたと笑い話で語っています。
つまり、世界チャンピオンが頭を丸めて年下に怒られる側になった、ということです。
実はこの入所自体、特例措置によるものでした。通常、オートレースの選手募集は23歳以下が年齢上限ですが、WGPや全日本ロードレース選手権での実績者に限り28歳以下まで緩和される特例枠が設けられ、青木治親はその制度を使った初の選手です。
デビュー翌年の2005年には、現役オートレース選手として初めて鈴鹿8耐に参戦。安田毅史とのペアで総合3位・JSB1000クラス優勝という快挙を達成しました。2006年にはGI初優勝、2011年には特別GIプレミアムカップも制しています。
青木がパイオニアとして道を切り開いたことで、その後に青山周平、鈴木圭一郎といったロードレース出身の選手が次々と入ってきました。オートレース全体の競技レベルを押し上げた存在として、業界内での評価は非常に高いです。
2024年にはオートレーサー生活20周年を記念し、29期の同期たちで旅行を行いました。「自分はただ好きなことをやっているだけ。ただ好きなバイクに乗っているだけ」。その言葉に、50年近くバイクと生きてきた人間の本音が詰まっています。
青木治親が現在力を注いでいるもう一つの柱が、公益社団法人SSP(Side Stand Project)の代表理事としての活動です。2019年9月30日に設立されたこの団体は、事故や病気で車椅子・義手・義足になった方々にバイクに乗る夢を届けることを目的としています。
活動のきっかけは、兄・青木拓磨の事故でした。
次男の青木拓磨は1998年のテスト走行中に脊髄を損傷し、以来下半身不随の状態でバイクに乗れなくなっていました。2018年末、海外で障がい者がバイクに乗る映像を見た治親は「じゃあやってやんよ」の一言で即座にマシン製作に着手。翌2019年には鈴鹿8時間耐久ロードレースの企画「Takuma Rides Again」で、拓磨は21年ぶりにバイクに跨り鈴鹿サーキットを走りました。SSP設立から公道ツーリングの実現まで、動きは一貫して速いです。
SSPの主な活動内容は次のとおりです。
- 🏍️ パラモトライダー体験走行会:全国各地で定期開催、障がい者が無料で参加可能
- 🛣️ やるぜ!!箱根ターンパイク:有料観光道路を年1回貸し切り、仲間とのツーリングを実現(2025年で4回目)
- 👥 ボランティア育成:健常者がパラモトライダーをサポートする人材を育成
- 🎖️ SDGs推進活動:内閣府特命担当大臣から「バリアフリー・ユニバーサルデザイン推進功労者表彰」を2025年末に受賞
体験走行会では、バランスサイクルから始まり補助輪付きのステップを経て、徐々に公道に近い環境へと段階を踏みます。装備一式はSSPが用意し、参加者の金銭的負担はゼロです。
「健常者がわざわざ隔たりを作っている。やってみたら上手くいくかもじゃん」という言葉がSSPの哲学を端的に示しています。
青木治親を語るうえで欠かせないのが「青木三兄弟」の存在です。バイク好きなら誰もが一度は耳にしたことがあるこの名前ですが、現在それぞれがどのような立場でバイクと関わり続けているかはあまり知られていません。
長男・青木宣篤(1971年生まれ)は、元ロードレースワールドチャンピオン候補として1997年シリーズではルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞。引退後は現在SSPのテクニカルアドバイザーとして、パラモトライダーへの技術指導に携わっています。モータースポーツ解説者としてもおなじみです。
次男・青木拓磨(1974年生まれ)は、1998年の事故で下半身不随となった後も四輪ドライバーとして現役復帰。ル・マン24時間耐久レースへの挑戦を続けるなど、不屈の姿を見せています。SSPではパラモトライダーとして実際に走行し、後に続く障がい者ライダーたちに「乗れる」という実証を体で見せ続けています。
三男・青木治親はここまで記事内で紹介してきたとおり、川口オートレース場の現役選手兼SSP代表理事として二刀流を続けています。年間200日をレース場に、残りをSSPの活動に充てるというハードスケジュールをこなす毎日です。
2019年の日本GPでは青木三兄弟揃ってツインリンクもてぎ(現:モビリティリゾートもてぎ)でデモランを行い、ファンを熱狂させました。このシーンを生で見た方も多いでしょう。1995年の日本GPでは三兄弟がWGP各クラスで表彰台を獲得という記録を作っており、その絆はレース後も途絶えることなく続いています。
バイク乗りとして、彼らの歩みは「乗れる喜び」と「支え合う文化」を同時に体現している存在として、多くのライダーにとっての指針になります。