

雨のレースで背筋が凍るほど速いライダーほど、実は晴れの日には苦労していることが多い。
2025年12月15日、清成龍一は自身のSNSを通じて現役引退を発表した。ファンの多くは「いつか戻ってくる」と期待していたかもしれないが、引退表明は驚くほどストレートな言葉で届いた。それが現実だった。
引退を決定的にした直接のきっかけは、2022年3月の鈴鹿サーキットでの公式テスト走行中の転倒だった。この転倒で清成は背骨を骨折し、固定のための金具を背骨に入れる手術を受けた。骨折だけならいつか回復の見込みもあるが、問題は2年以上が経過してから発生した。骨と金具の癒着が進んだため、将来への影響を考えると金具の取り外しが不可欠になった。ただし、金具を取り外すとしばらくは体に負荷をかけられない状態になるため、回復期間が読めなかったのだ。
2024年12月、清成は「2025年の去就は未定」と正直に発表した。そして2025年の全日本ロードレースにも鈴鹿8耐にも彼の名前はなかった。清成のいない一年が過ぎた末に、引退の決断が下された。これは感情的な決断ではなく、冷静に自身の体と向き合った末の選択だった。
骨折の箇所が背骨というのは、バイクライダーにとって特に深刻な部位だ。脊椎は乗車時の姿勢を支える中枢であり、衝撃吸収の要でもある。ここに金具が入った状態ではわずかなショックも骨に直接伝わるリスクがある。これがいかにライダーとしての活動を制限するかは、バイクに乗る人であれば想像に難くないだろう。
つまり、清成が背骨を骨折した2022年から、実質的に引退は始まっていたということです。
参考:清成龍一選手が2024年12月に発表したリリース全文(怪我の詳細と今後の去就について)
まずは身体の回復に努めるキング・キヨ。「今後の去就は未定」と発表(carview Yahoo!ニュース)
清成龍一がイギリスで「King Kiyo」と呼ばれるようになったのは、2006年のブリティッシュスーパーバイク選手権(BSB)で日本人として初めてチャンピオンを獲得したからだ。当然の結果ではない。
BSBはイギリス国内の最高峰二輪レースで、参加するライダーたちの平均レベルは極めて高い。ジョナサン・レイ(後のWSBK6連覇)、レオン・ハスラム、トム・サイクス、カル・クラッチローらが同時期に走っていた。その中で清成は2006年・2007年と連覇し、2010年には3度目のタイトルを取った。BSBでの通算勝利数は50勝以上に達している。
特筆すべきはイギリスでの雨天時の走りだ。イギリスのサーキットは晴れていても路面がしっとりとして、刻々とコンディションが変化する。そんな環境で当時MotoGPに参戦していた高橋裕紀の元に、アンドレア・ドヴィツィオーゾが「これを見ないとダメだ」と清成の雨の映像を持って駆け込んできたほどだった。GPパドック全体が清成の走りに注目した。
2010年のBSB最終決戦は特に語り草だ。清成はランキングトップと15ポイント差の3位で最終戦に臨んだ。ショーダウン方式で全選手のポイントが500にリセットされ、そこから3連勝で大逆転チャンピオンを手にした。プレッシャーで眠れず、メカニカルトラブルでバイクを蹴飛ばしてしまうほど追い詰められながらも、決勝に集中して全部勝ったのだ。これが基本です。
清成が語ったレース哲学はシンプルだった。「負けたら自分のせい、転倒も自分のせい。絶対言い訳しない」。この言葉は清成が2001年、チーム高武のガレージで自分に誓った言葉でもある。若き日に全く結果が出せなかった時期を経て、覚悟を決めた一言だ。そして25年以上のキャリアを通じて、その言葉を守り続けた。
年間15〜20回のファンイベントへの参加を「レースに集中したい」と内心では楽しめなかった清成だが、「ファンとディーラーの存在が自分を走らせてくれていると理解したのは、だいぶ後でした」と振り返っている。これは意外ですね。
参考:BSB3回・鈴鹿8耐4勝の実績についての公式まとめ
清成龍一 - Wikipedia(レース戦績全記録)
鈴鹿8時間耐久ロードレースは「バイク乗りの甲子園」とも呼ばれる。日本最高峰の耐久レースで、真夏の鈴鹿を8時間走り切る過酷さはライダーを蝕む。路面温度が60度を超えることも珍しくない。そんなレースで清成は2005・2008・2010・2011年の4勝を挙げている。
4勝という数字は、宇川徹の歴代最多5勝に次ぐ歴代2位タイの記録だ。清成がこの記録を5勝に伸ばすことを夢見ていたことは、インタビューでも繰り返し語られている。2012年と2013年の鈴鹿8耐では優勝目前でデグナーコーナーにて転倒・炎上するという悲劇も起きた。特に2012年、炎上したマシンに体が覆われた状態から起き上がり、肋骨が折れ内出血を抱えながら燃えたバイクをピットまで押し続けた場面は、多くのファンの心を打った。
清成の8耐勝利にはパートナーへの配慮と駆け引きが光る。2010年の優勝では、20歳の高橋巧が暑さで消耗したとき、「帰って来い」と言って最後の長いスティントを自分で引き受けた。高橋はこの瞬間に「この恩を必ず返す」と誓い、その後10年以上チームオンの合宿に参加し続けた。清成の8耐への姿勢が一人の名レーサーを育てたのだ。
路面温度60℃というのは、アスファルトの上に素足で立てばすぐに火傷するほどの熱さだ。そんな環境でタイヤのグリップを読みながら8時間走り切る体力と判断力が鈴鹿8耐では求められる。清成はこれほどの条件でも「体力への自信」を武器に、後半にペースを落とさない走りを見せ続けた。これは使えそうです。
清成龍一の経歴を追うと、「天才がすんなり世界に出た」という印象を持つ人は多い。だが実態は全く違う。清成は1982年生まれ、埼玉県川越市出身。バイク好きの父親に連れられて幼少期からレースを始めたが、当初は「バイクは怖いし、うるさいし、転んだら痛いし、何が楽しいんだって感じ」と語っている。レースは好きではなかったのだ。
全日本デビューの1998年はランキング26位、翌1999年は23位という低迷が続いた。チーム高武の2階に間借りし、アルバイトをしながら練習する日々だった。自分のエアコンの消し忘れでチーム全員が追い出されるトラブルも起こしている。いつも結果が残せない不甲斐なさの中、アルバイト先のガソリンスタンドの店長の一言「生活の乱れは心の乱れだぞ」が転機になった。
それまでの生活を一新して友人関係も断ち切り、高武の2階に戻ってレースに集中する覚悟を固めた2002年、ST600クラスに転向すると開幕から連勝してチャンピオンになった。「雨が速い」と目をつけたベテランメカニック・柳本眞吾の慧眼が清成を育てた。
2003年には加藤大治郎の急逝という悲劇の中で代役としてMotoGPに参戦した。スペインに降り立ったとき、迎えに来たメカニックに年齢を尋ねられたが、スペイン語で「20歳」の言い方がわからなかった。そんな経験が2004年のBSB参戦につながり、10年以上イギリスで戦い続けることになる。つまり成功は、ギリギリの状況の積み重ねです。
ホンダ・BMW・スズキと複数のメーカーをまたいで戦い、2017年に15年ぶりに全日本へ復帰。2019年にはWSBKにも再挑戦し、2020年の全日本ではランキング2位にまで返り咲いた。40代でのランキング2位という事実は、清成の体力と探求心がいかに並外れていたかを示している。
清成龍一のキャリアを語るとき、レース成績と並んで語られるべきなのが「チームオン」という存在だ。これは清成が自宅を拠点に主宰したライダー向けトレーニング集団で、年明け1月1日に集合して2日から走り始めるという猛烈な合宿スタイルで知られる。
チームオンには高橋巧、浦本修充、大久保光、山田誓己、水野涼、岩戸亮介、作本輝介、長島哲太など、後に全日本や鈴鹿8耐で活躍する面々が参加した。清成の自宅ガレージにはオフロードバイクが整然と並んでいて、メンテナンスも清成本人が担当していた。150坪の敷地に3階建ての自宅を構え、2階に住居、3階にトレーニングルームを設けるという徹底ぶりだった。
長島哲太は2023年の鈴鹿8耐で優勝、2024年も同大会で優勝を果たしている。これはチームオンで清成から学んだライダーが世界レベルで結果を出している証明だ。浦本修充は「まだ小学生だった頃にチーム高武でサインをもらった人が、自分のライダーとしての原点になった」と語っている。
清成が引退後にガレージのバイクを大量に売却したという事実は、単なる身辺整理ではなく、チームオンとともにあった時代の終わりを象徴している。そのガレージを見て、記者は「清成は本当に引退を決めた」と感じたと記している。これほどの覚悟があっての引退だった。
バイクに乗り続けるということは、転倒のリスクと向き合い続けることでもある。清成は30年近いキャリアで鎖骨・背骨を含む複数の骨折を経験しながら、それでもコクピットに戻り続けた。その姿勢はプロフェッショナルとしての模範でもあり、引退後も若いライダーやバイク乗りへの財産として生き続けている。これが原則です。
バイク乗りとしてライディングスキルを高めたいと考えているなら、清成が実践してきたオフロードトレーニングの考え方はヒントになる。オンロードとオフロードを組み合わせることで、バランス感覚やグリップ感を磨けるという方法論は、現在のライダー育成の現場でも広く取り入れられている。
参考:清成龍一ロングインタビュー全5回(WEB Mr.Bike)
清成龍一 最初で最後のロングインタビュー 第1回「決意の引退」(WEB Mr.Bike)
清成龍一という最高峰のレーサーが、背骨骨折という体への打撃から回復できずに引退を迫られた事実は、バイクに乗るすべての人間に問いかけるものがある。
プロであれアマチュアであれ、転倒時のリスクで最も深刻なのは脊椎・頭部・鎖骨だ。清成のキャリアを振り返ると、2002年の鎖骨骨折を皮切りに、2008年の鎖骨骨折と首の筋損傷、2009年の鎖骨悪化とプレート手術、そして2022年の背骨骨折と、繰り返し怪我を抱えながら戦い続けてきた歴史がある。鎖骨の骨折だけでも3回以上だ。
清成が引退を表明したInstagramのコメント欄には「引退後のセカンドキャリアが競輪選手!?」というコメントが寄せられるほど、引退後の身体は健康であると信じているファンも多かった。しかし背骨への金具留置と取り外しは、それほど簡単な問題ではなく、回復期間すら読めない状況だったのだ。
プロライダーが着用するレーシングスーツには背中部分にプロテクターが内蔵されており、脊椎の保護を重視した設計になっている。一般のバイク乗りが街乗りや峠走行をする際も、このバックプロテクターの有無はライダーの安全に直結する。清成が経験したような背骨骨折をリスクとして意識したとき、バックプロテクター入りのジャケットを選ぶことは最も手軽な自己防衛策のひとつになる。
厳しいところですね。ただこれは一流プロが積み上げた経験から見えてきたリアルな教訓でもある。清成龍一が30年間走り続けて示してくれた一番の教えは「バイクは全力で楽しむもの、ただし怪我への備えは怠らない」ということかもしれない。
清成は自分のトレーニング術として柔軟性と体幹の強化を重視していたことが知られている。レーシングポジションを長時間維持するための体幹力は、一般のツーリングライダーにとっても長距離での疲労軽減に役立つ。清成が40代でランキング2位を取れた理由のひとつが、このフィジカルへの投資にあったことを忘れたくない。バイク乗りとして長く走り続けたいなら、身体への投資は最優先事項だ。これが条件です。
参考:清成龍一ロングインタビュー(Webikeニュース)でのキャリアの詳細
引退を表明した清成龍一ロングインタビュー第3回 挫折からの挑戦(Webike NEWS)